阪神・淡路大震災から30年
昨日1月17日は、阪神・淡路大震災から30年の日でした。
以前ブログにも書いたように、この日は私にとって人生が大きく変わった日でした。
当時はまだ若かったので、朝が来ない夜はないと普通に思っていたし、実しやかに「関西には大地震は来ない」と言われていたので、自分が大きな地震に遭遇するとは全く考えてもいませんでした。
あれほど恐ろしい体験は、30年経った今も塗り替えられることはありません。
何がそんなに怖かったのか―もちろん揺れの大きさや聞いたことのない地鳴りの音も怖かったのですが、時間を追うごとに報道される壊滅状態の神戸に住んでいる友人と連絡が取れず、もしかしたら亡くなっているかもしれないと感じながら為す術がなく過ごした時間が一番恐怖の記憶として残っています。
幸い友人・知人たちはみんな無事だと後にわかり、私の周りで亡くなった方はいませんでしたが、今でも当時の映像を見ると、あの日の恐怖が鮮明に思い出されて、まだ涙が出ます。
震災から1年半後に、私は阪神地域のある施設に就職しました。そこは建物は大きな被害はなかったものの、震災当時は断水や停電で大変だったと聞きました。まだ救援物資がたくさん届いていたり、入所者の方が「地震の時、そこの台の上からテレビ落ちてきたんやで~」と話してくださったり、大阪など遠方から通勤されている職員さんが自宅から持てるだけの水を毎日持って出勤したという話を聞いたり、震災の記憶が生々しく残っていました。自分が震災当時にこの施設の職員だったら、どう行動していただろうとよく考えたものです。
その施設も後に建て替わり、今は当時の面影はほとんどありません。30年経った今では、あの壊滅的な状態が本当にあったことなのか信じられないぐらい、街並みもきれいに復活しています。
30年という年月は、震災を知らない世代が増え、どう継承していくかが課題だと報道されています。
折しも今年度から障がい福祉サービスでは、地震を初めとした自然災害発生時における業務継続計画(BCP)の策定が義務化されました。
どんな災害が起こるか、自分がどんな被害に遭うか、予測して準備しておくことはとても大切なことですが、時にはその予測をはるかに超える災害が起こります。
被害を少しでも抑えることは可能であっても、被害をゼロにすることは残念ながらできない。『備えあっても憂いはある』のです。
ではBCPを策定するにあたって何が大切なのか。
「実際に災害が起こったら、自分たちはどう行動すればよいか」ということを、自分事としていかに想像できるかに尽きると思います。
私たちのような小規模事業所にとってBCPの策定はとても大変な作業でした。はっきり言って作ることだけで手いっぱい。しかもとりあえず厚労省のフォーマットを埋めていっただけになってしまいました。
でもこれでは意味がありません。自分事にブラッシュアップしていくことが大切だと考えます。
特に我々は通所事業所なので、利用児のご家族といかに早く連絡を取り合えるかということが重要なのではないかと考えています。通信が遮断されて安否の確認ができず、不安が増強されることを大震災で体験した者としては、『連絡が取れること』は震災直後だけでなく、その後の状況確認やニーズ把握にも重要だと考えます。人とのつながりは、災害で傷ついたときには生きる希望につながり、実際に命を救うと思うのです。
阪神・淡路大震災は、多くの人の命が失われ、多くの人の心に多大な傷跡を残しました。でもあの震災があったからこそ、日本の防災意識が大きく変わり、30年前にはなかった制度や安全対策が進みました。
私自身も、必ず明日が来るとは限らないと自分の人生を考えなおす機会になったし、「関西には大きな地震が来ない」とアホな考えをすることもなくなりました。今でも思い出すと涙が出るほどの恐怖の体験でしたが、あの体験があったからこそ考えを改めることができたと思います。
震災を体験していない世代の人には、実感としては感じられないかもしれないけれど、いろんなことを学べる一日になればいいなと思い、今年も5時46分に黙祷を捧げました。
これからも大切な日として毎年祈りをささげたいと思います。